日本と台湾を音楽でつなげていきたい 京えりこインタビュー(2)

 作詞家の京えりこさん。ムッシュかまやつの「キスの写真集」で作詞家としてデビューし、以降、ポップス・アニメ・声優・演歌・歌謡曲の歌詞を提供し続けている。また、台湾・フィリピン・奄美、黒潮文化を共通点に持つアジア諸国と日本の音楽交流に基づいた音楽制作を模索している。そんな彼女に、台湾と日本との約100年に長きにわたる音楽交流について話を伺った。Part1はこちらから。


台湾中部にある南投県の埔里(プーリー)での出会い


―仕事で台湾へ行き、各地のカラオケ愛好者の方の歌をたくさん聴いたそうですが、いかがでしたか?

 日本人演歌歌手の飛鳥とも美が、カラオケ雑誌「カラオケファン」の台北での出版記念キャンペーンガールに任命されたのを機に、私も台湾に同行しました。(※京えりこさんは、飛鳥とも美さんが歌う台湾にちなんだ歌「永遠の春」の作詞をしている)カラオケ雑誌のキャンペーンということもあり、たくさんの方の歌を聴くことが出来ました。台北や台南、そして台中など、どこに行っても歌が上手な方と出会いましたが、特に埔里(プーリー)という台湾中部にある町のカラオケクラブの方たちの歌の上手さには驚きました。

 みなさんの歌を聴くと、“なんでこの人たちは、こんなに上手に日本語で演歌を歌っているのだろう?”と、不思議に思ってしまうほどです。日本語が話せない方たちなのに、日本語の発音がとてもきれいで分かりやすいんです。聴いているうちに、“もしかして、日本語って、この人たちのような発音で歌う方がより伝わるんじゃないかしら?”と思うくらいの驚きと衝撃がありました。

 私もあとから知ったのですが、埔里(プーリー)は原住民(*1)の方も多く住んでいて、芸能が盛んで歌が上手い人が多いことで知られている町でした。この時に出会った、埔里(プーリー)のカラオケクラブ、歌友会(かゆうかい)のみなさんとの出会いが、台湾と日本の音楽交流をもっと知りたいと思ったきっかけにもなっています。

↑  霧に抱かれた山と檳榔(ビンロウ)が幻想的な埔里(プーリー)


―埔里(プーリー)の歌友会のみなさんの年代はおいくつですか?

 50代~60代の方が中心だったと思います。歌っている演歌は、いわゆる懐メロのようなものよりも、最近に発表された曲でした。

 台湾では、基本的には1987年に戒厳令が解除されると、日本語も解禁になり日本の歌がどんどん歌われるようになっていきます。でも、実はそれ以前もいろいろなかたちで、みなさんは日本の歌もたくさん聴いていたそうです。その話を聞いていると、日本人が知らないだけで、台湾の方は日本のことを良く知っていることが分かり、とても驚きました。この驚きや “どうしてこんなに知っているのだろう?”と思ったことが、台湾の歌や音楽事情を知りたいと思う気持ちの根底にあります。埔里(プーリー)を訪れたのは、2014年でしたので、いまから6年前のことです。この時から、台湾と日本の音楽交流を調べるようになりました。

↑ 台湾・南投縣埔里、カラオケ愛好家の歌友会の皆さんと。


日本と台湾の文化交流が見えてくる

―6年というと、えりこさんのキャリアからしたら、つい最近のようにも思えますが、この期間に、いろいろなことを調べられましたね。

 そうですね。台湾には既にこのことを研究している方がいたのも、調べられた理由だと思います。日台の音楽交流の歴史について、時代ごとに詳しい方がいて、いろいろなかたちで研究成果を残しているんです。だから、出版されている書籍を読んだり、資料を調べてみたりすることが出来ました。読み進めていくと、本当に興味深い発見がたくさんありましたので、それを多くの方にお話をしたいなと思っています。
 台湾で音楽交流の歴史を研究している方に、林太崴(リン・タイウェイ)さん(*2)という方がいらっしゃいます。林さんのご著書によると、日本と台湾に音楽交流の歴史があると知ったのはおよそ20年前のことだそうです。そこから昔の音源を集め始めて、いまでは研究家として活躍されています。この方の功績も大きいですね。


―1945年まで台湾は日本の統治下だったと教科書で学びましたが、1945年より前の台湾と日本との関わりについては、あまり知らなかったです。台湾へは、食べ物やいまの文化を楽しみに旅行に行きます。それも楽しいですが、日本と台湾の文化交流背景が分かると、より楽しめるかもしれませんね。

 食べ物や文化を楽しみに旅行に行くのも良いですよね、特に食べ物!(笑)

 私は、台湾の美術にも縁がありまして、美術に関しても日本と台湾での文化交流があることを知りました。それは、音楽の交流を知る前のことになるのですが。統治時代には、私たちも知っているような日本の有名な美術家が台湾に行き展覧会を開いて交流していたことに驚きました。そして、音楽のことも調べたら、美術と同じことが起こっていました。ジャンルが違っていても共有している歴史は同じですから、音楽も美術も建築でも同じことが起こりますね。美術での交流を先に知っていたので、音楽でも同じことが起こっていることも、すんなりと理解できたなと思いました。食べ物プラス文化の歴史を知ると、より台湾を理解して好きになれるんじゃないかなと思っています。

 台湾では、統治時代の建物をリノベーションしてカフェにしていることも多いですから、歴史の流れを知りながらお茶を飲んで過ごすのも良いかもしれません。それに、日本人からすると、当時の建物を台湾政府が残して活用してくれているということに、凄さと共に有難さというか、そんなことを感じることがあるんです(笑)日本のためにやってくれている訳ではないけれど、自分たちの関わったものが残っている、という観点を持つと、旅先の景色も変わってくるんじゃないかなと思います。

↑ 台北にある松山文創園区。統治時代のタバコ工場の跡地一帯をリノベーション。かつてのタバコ工場の託児所は、閲楽書店というブックカフェになっている。


―確かに。カフェでの時間を写真に収めてSNSに投稿するのも楽しいですが、それと共に文化的な交流の背景を感じるのは、とても良いですね。

 そうですね。そのひとつとして”音楽”を通して、日台の交流や歴史も知ることができたらいいなと思っています。第二次世界大戦が終わって全てが途切れたということではなく、日本と台湾は実はいろんな形で繋がっていました。戦後、日本は必死に国を復興をさせました。その間に50年間日本であった台湾のことを、忘れてしまったかのようなこともありましたが、2011年の東日本大震災の義援金の多さに、驚いた日本人もいたと思います。もちろん知っている人もたくさんいましたが、これを機に初めて日台の歴史を知った人が私の友人にもいますし、そこから100回以上台湾を訪れている友人もいます(笑)義援金は、日本人にたくさんの意味を与えてくれたんだなと思います。


―今回のコロナに関しても、マスクなどの寄付をありました。台湾のバンドElephant Gymは、日本のライブハウスや医療機関などのためにクラウドファンディングを設立しました。1945年より前の音楽交流もありますが、いまもまた新しい交流というか、今までの交流が脈々と続いているように感じます。日本でライブをする台湾のアーティストもいますし、台湾でライブをする日本のアーティストもいますし。

 そうですね。だからこそ、一度、音楽交流の歴史を遡って知りたいなと思ったんですよね。それを知り、“脈々と続いている”ということが分かると、より交流が深まるというか、心と心の交流からまた新たな音楽が生まれてくると嬉しいなと思っています。

(Part3 に続く)


*1. 台湾では、もともと住んでいた方のことを「原住民」と呼んでいますので、そちらの呼び方に統一しています。

*2.林太崴(リン・タイウェイ)氏/台湾の音楽学者。1930年代 日本統治時代の台湾のポップスが専門。


京えりこ(きょう・えりこ)

鹿児島市出身

1991年、歌詞がレコード会社のプロデューサーの目にとまる。ムッシュかまやつの「キスの写真集」でデビュー。以降、ポップス・アニメ・声優・演歌・歌謡曲の歌詞を提供。現在、台湾・フィリピン・奄美、黒潮文化を共通点に持つアジア諸国と日本の音楽交流に基づいた音楽制作を模索中。一般社団法人 日本作詩家協会 理事(2014年~2020年)

◆主な作品
岩崎宏美40周年記念曲「光の軌跡」
伊藤咲子「プルメリアの涙」(作曲家三木たかし氏遺作のメロディ)
宮路オサム・走裕介「風来ながれ唄」
飛鳥とも美 「永遠の春」
Yucca「ALIVE~心の休息~」「花~Higher Higher~」
西田ひかる「愛はそばに」
ムッシュかまやつ「キスの写真集」
児島未散「Everlasting」Lyricプロデュース
東京パフォーマンスドール・篠原涼子「言葉と花を束ねて」
菅原祥子「ガムシャラ」など、100曲ほど提供。


◆台湾で発売されている楽曲および音楽制作担当
Yucca 「THE BEST」の「ALIVE ~心の休息~」
飛鳥とも美 「大家好!我是飛鳥奉美」の「永遠の春」
九族文化村の2018年の櫻花祭の音楽制作「海人」(Yosakoiの踊りのための音楽)&櫻花祭のCMソング


インタビュー:石井由紀子(ミュージックソムリエ)

NPO法人ミュージックソムリエ協会

NPO法人ミュージックソムリエ協会は音楽に関与する人材を発掘し、育成し、音楽とその周辺のソフト産業の活性化・多様化をもたらします。

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