作家 小路幸也さんと音楽・小説

今回のミュージックソムリエインタビューは作家の小路幸也さんにお願いいたしました。
ミュージシャンや音楽関係の方だと、あまり構えずにお話をお聞き出来るのですが、作家の方は初めてでしたので、とても楽しみにしていました。しかも、個人的な事ですが、私は小路幸也さんが書かれる小説が大好きで、特に「東京バンドワゴン」シリーズは毎回刊行されるのをとても楽しみにしています。小路幸也さんと私は生まれた年も同じなので(1961年共に52歳)お話を伺っていると、共感できる部分がとても多く、通ってきた同じ時代を共有しながらのインタビューとなりました。



—小路さんの小説を読ませて頂いていつも感じることなのですが、どの作品からも音楽が聴こえてくるのですが、ご執筆される時はいつも音楽を聴かれるのですか?
作品を書こうと思って大体こんな感じだなと決まると、まず作品のサントラ盤を作るんです。それとテーマ曲を決めるんです。i-tunesの中から選んで、それを流しながら書きます。東京バンドワゴンならば『バンドワゴンサントラ』には13曲入ってるんですが、まず1曲目はこれです。

(PCを作動させ、i-tunesから曲が流れる)
井上尭之バンド『傷だらけの天使~オープニングテーマ』
そして、テーマ曲はこれですね。
中山うり『ノスタルジア』
二作目からはずっとこれです。一作目はまだ出ていなかったので、アン・サリーさんの『胸の振り子』という曲だったんですが。


—東京バンドワゴンシリーズはタイトルが全てビートルズのスタンダード曲ですね。

ええ、それも勿論入ってます。サントラの中に。テーマ曲は書いてる間ずっと聴き続けているので中山うりさんのノスタルジアは合計1070回聴いてます。でも、書き出すと集中しちゃうので歌詞は覚えてないんですけどね。


—逆にミュージシャンは作品作るときに小説を読んで、その中からテーマを見つけたりしますね?

知り合ったミュージシャンにも小説読む方多いですね。もともと僕はミュージシャン目指していたんですよ。確かに僕も子供の頃から沢山小説読みました。やっぱり音楽も小説もインスピレーションが沸くところが同じなんでしょう。

—そうですね。小路さんが一番最初に音楽に向き合ったというか目覚めた音楽体験はどんな感じだったんですか?

中学一年の時です。もちろんそれ以前から歌謡曲も聴いていましたけれど。中一の時、友達の家に行ったらフォークギターが置いてあったんです。

その友達も一つしかコード弾けなかったんですけどね、確かCのコードだったと思うのですけれど目の前でジャラーン!!・・・と弾いて、その瞬間「うわっ」と思ったんです。今でも鮮明に覚えてます、衝撃を受けましたね。そうか、これが楽器というものなのか。これが和音というものなのか。この連続が曲になるのだと。初めて「音楽」を意識しました。
今まで聴いていた音楽というものが、まずここから始まるのだと。その瞬間、「あっ俺もギター弾きたい」と思いましたね。そこから色々と音楽を意識し始めました。それで、フォークギター買ってもらいました。

—最初は色々とコピーもされたんですか?
当時、明星とか平凡とか出ていましたよね。あの付録についてたソングブックを片っ端から見ながら一所懸命コード覚えて、なかなかハイコードが押さえられない、Fのパワーコードが押さえられない、クソー、みたいな。(笑)

—誰もが一度は通る道ですね。一番最初に一曲まるごと弾き通した作品はなんだったんですか?
あんまり正確には覚えていないのですが、おそらく中村雅俊さんの『白い寫眞館』だったのではないかと。その時代のフォークソングはソングブックを見ながら一所懸命それこそ、かぐや姫とか拓郎さん、陽水さんなど弾いていました。

—洋楽は聴かれていましたか?
ええ、聴いていましたね。ただ中学生当時は日本のフォークソングでした。実は当時、放送委員をやっていまして、その時初めて荒井由実さんを聴いてびっくりしました。デビューアルバムの「ひこうき雲」を聴いて、なんだこのきらびやかな世界は、日本語でこのきらびやかな音は、とビックリした事を覚えています。
そこからティンパンアレイや、キャラメルママ、サディスティックミカバンドなど日本のロックに触れました。その後です、洋楽を聴き始めたのは。クリーム、ツェッペリンなどのLPを聴き始めました。ただ根がフォークでしたから、どちらかというとメロディ重視だったので、イーグルスやサザンロックが好きでした。とりあえずなんでも聴きました。
実は「安全地帯」が旭川出身のバンドなので、まあ先輩でもあったこともあってよくライブ聴きに行きました。当時の安全地帯はバリバリのハードロックで、玉置さんがカーリーヘアーでフライングVを弾いて「グワーッ」て・・・いや凄かったんですよ。すっげえなあ、こんな世界があるんだなあと思いました。

—聴かれる音楽のジャンルが広がっていくのはやはり当時はラジオからでしたか?
もちろんオールナイトニッポンも1部2部と聴いていましたけれども、実は高校一年の時に中学時代の先輩だった女の人に街中でばったり会いまして、今ここの喫茶店にいるから遊びにおいでよって誘われて、「ダウンタウン」という小説にも実名で書いたのですが、「ぶろっく」という実在する小さな喫茶店でして、そこではとにかく音楽が溢れていたのです。壁には様々なLPがずらっと並んでいて、JBLのスピーカーが設置されていてもうあらゆる音楽がありました。
そこで、いろいろな音楽に触れました。ジャズもそこで知りましたし、フリートウッドマック、あとジャズフュージョンが流行った時期で、クリスタルゲイルやフィービースノウ、いい声してるなあとか、オーティスレディングもこの店で知りました。日本のフュージョンバンドも好きで、トランペットのタイガー大越さんや菊池ヒミコさん、あと神崎オンザロード。

—神崎オンザロード!!コアに懐かしいところきましたねぇ。(笑)
確かに、久しぶりに口にしました。(笑)
「ダウンタウン」のタイトルにもしましたけど、シュガーベイブもここで初めて聴きました。

—クラシックはいかがですか?
クラシックには行きませんでしたね。まるっきり。中学の音楽の授業で聴いたものしかわからない状態です。


—音楽の授業つまらないですからね。あれじゃ嫌いにもなりますよ。そういえば、よく「踊ろうマチルダ」さんの事紹介されていますが。
ええ、彼はネットで知ったのですが、初めて聴いた時、「うわっなんだこいつ無茶苦茶アイリッシュだな」と、僕もトムウエイツ好きですし、たまたま会って話をする機会があったのですが、彼も好きだと言ってましたね。で、面白いのが彼が音楽に入るきっかけなんです。訊いたらなんとゲームの「ファイナルファンタジー」だと言うんですよ。
今、彼は32歳ですが、「ファイナルファンタジー」は様々な神話を基にしているのですね。その中にアイルランドの神話も出てくるんですよ。それでアイリッシュサウンドもゲーム中に出てくるのですが、それを小学生当時に聴いて感動して、そこからトムウエイツなどのアイリッシュロックを聴くようになったと言ってました。


—入口がファイナルファンタジーですか。で、またその後の展開がスゴイですね。ゲーム音楽からトムウエイツ。それが今の『踊ろうマチルダ』を形成していると。
そういう世代なんでしょうね。20歳の差は、なるほどこうも違うのかとびっくりしました。
ゲーム音楽も今ではサントラ並みにクオリティ高くなってますし。そこに影響されるのも理解できますね。僕もドラクエのテーマメロディ聴くと血が湧きあがりますから。(笑)

—小路さん自身は東京に出て、プロミュージシャンにになろうとは思わなかったのですか?
ずっと思ってました。・・・思ってましたけど、でも高校時代にはもうダメだな俺は、と思いました。作詞には自信あったのだけれど、作曲がダメでしたねぇ。もうコードを弾く手癖が決まっちゃってどうやってもそこから抜け出せない。自分の循環コードからいっさい抜け出せない。「あ、こりゃダメだ」と。あと、音痴でしたから。

—いやいやいや。
いや、もうホントに音痴。いわゆる三度五度のハモリができないんです。「あ、俺には音感はないな」と。大学当時はパブで働きながら、ライブハウスには出てましたけど、当時、メジャーへの階段といえばヤマハのポプコンでした。勿論応募はしたのですけれど、旭川地区予選のステージまでは出るのですがそれで終わり。北海道地区大会には出られない。(笑)

—大学からすぐに広告会社ですか?
いや、実は当時、仲間と喫茶店開いたり、音楽関係の事務所を作ったのですよ。丁度デジタル楽器が出始めた頃で、確かヤマハのDX-7が発売された時期です。シークェンサーだとかエレキピアノのCPシリーズなどの楽器をローンで買って貸出したり、アマチュアミュージシャンのサポートをしてました。ただそれだけでは喰えないので、コンサートの照明会社に入りました。道内ツアーをやるミュージシャン達に同行して、腰に道具入れのベルト巻いて、イントレ登ってライトの角度調整したりしてました。
サザンオールスターズや、浜田省吾さんとも道内ツアー回りました。ただ、演歌の仕事もどんどん入ってくるわけですよ。当時の事ですから演歌苦手じゃないですか。若い頃は。なんかしみったれた感じがして。色んな人のレパートリーが道内回る間に頭から離れなくて。


—でも、結構今時の年齢になると演歌もいいなあとか思いません?
ですね。歳とともに。染みるようになってきました。そういえば以前、伊藤銀次さんとお会いして飲んだ時に、銀次さんも言われてました。昔は演歌聞けなかったけど今はいいなあと。あ、プロのミュージシャンもそうなんだ、とちょっと安心しました。

—伊藤銀次さんとは照明屋時代にお会いになったのですか?
いや、実は銀次さんも偶然僕の本を読んでくださっていて、銀次さんも小説をかなり読まれる方で、東京バンドワゴンを書店で手にしてくれて、「あれ、『バンドワゴン』て鈴木茂くんのアルバムのタイトルだよな」、って思われたそうで、事実、鈴木茂さんのアルバムからいただいてタイトルにしたんですけどね。
そしたら後日また書店で今度は『ダウンタウン』を手にされて、あれ、これは俺の作った曲と同じじゃないかと。しかも同じ「小路幸也」という作家だと。で、それも買って頂いたのです。それを銀次さんがご自身のブログに書いてくれたのです。たまたまそのブログを僕が読んで「えっあの伊藤銀次さんが僕のこと書いてくれている」びっくりして慌ててメールを出しました。
「じゃあ東京に来たら会いましょう」という事になり、それから始まったご縁なのです。それで、銀次さんを通じて佐野元春さんにもお会いできました。当時、銀次さんがやっていらしたネットラジオで「小路さん対談しましょうよ」って事になって出演したのですが、その時のディレクターが佐野元春さんのマネージメントの方で、そのご縁で佐野さんにもお会いすることが出来たのです。いやあ、作家になってよかったなあと思いました。(笑)
それで、その後、佐野さんの30周年の記念ライブのオープニングの台本を僕が書かせていただいたり、色々とお付き合いが始まったわけです。

—いやあ、僕ら音楽屋は逆ですね。小説家と知り合いになれたら凄い嬉しいですよ。滅多に会えない方々ですし、いつも感動をいただいてるわけですから。
そうなんですか。そういえば銀次さんと一緒に仕事をしている元「L⇔R」の黒沢秀樹君が僕の本が好きでずっと読んでくれていたそうで、銀次さんと黒沢君と一緒にご飯食べた時に、彼は「えー!!小路幸也さんですかっ」て感激してくれてお互いに僕は本に、彼はCDに、とサイン交換しましてね。

—やはり互いにリスペクトし合うんでしょうね。で、話を戻しますが、広告業界にはどういうキッカケで?
20代前半はそんな感じで色々と音楽に携わる仕事をしてました。でも、結局は喫茶店も潰して、音楽の方も儲からないからやめようと思ったのです。当時はバブルが始まった頃で、札幌の丸井今井という百貨店が、リニューアルした時にいわゆるバブル時代によくあった外人モデルを起用したオシャレでかっこいいポスター作ってたんですよ。
で、あまり興味はなかったのですけれど、そのポスターは気に入りまして、そこの広告制作会社が求人してたのです、新聞広告で。それで応募したら社長面接で「お前、なんか面白そうだから明日から来いよ」と言われて「いやあ、広告のコの字も知りませんよ」「まあ、なんかできるだろ」って事で即採用されたんです。
それで、大学が文学部だったので「じゃあなんか文章くらいかけるだろう」と。で、当時百貨店の会員誌の編集などやらせてもらいました。それからずっと広告業界で14年。


—そこから作家になるキッカケはどういうことだったのでしょう。
広告始めて6年くらい経って、30歳になり結婚して子供も一人生まれて、もともとミュージシャンになりたかったくらいですから、なにか表現はしたいと思っていたのです。
で、悶々としまして、広告はチームワークの面白さはあるのですが、自分一人で何か表現したいと思ったのです。で、そうだ。小説家になろうと。作家になろうと決めてしまったんです。それまで作家になろうなんて全く考えていませんでしたけれどね。


—本を読まれるのはお好きだったと先ほども伺いましたが?
ええ、読書家ではありました、子供の頃から。自分の世界を表現するためにはもう作家になるしかないな、と。それで色々と新人賞に応募して、それからデビューするまでに12年掛かりましたけれど。42歳がデビューです。

—わたしはいまだに小説家になりたいと考えていますけどね。
いや、幾つになってもなれますよ。運さえあれば。

—やっぱり読むのと創るのは違いますよね。
ただ、初めて小説書いた時も特に苦労もしないで書けたのですよ。思い起こせば、ずっと物語作ってきたような気がします。歌詞も言ってみれば物語ですから。あと、小、中学校と放送委員をやっていて、放送劇を書いていたこともありました。
で、いつも思うのだけれど、僕らの世代って漫画にしてもテレビにしても映画にしても黄金期を体験してきたじゃないですか。一番いい時期を過ごしてきたことが経験につながっていますね。

—そうですね。テレビも映画もバンバンお金掛けていましたから。
ええ、いまだに少年ジャンプの創刊の時を覚えていますよ。それと、姉が二人いまして、物心ついた時には少女漫画も読んでましたね。別マ(別冊マーガレット)やリボン、なかよし。そういう全てが今のベースになってます。映画もかなり観ました。
僕の作品で唯一映画化されたのが「東京公園」なんですが、1976年に公開された「フォローミー」というミア・ファロー主演の映画のオマージュなんです。それを観たのがおそらく小学校の六年頃でした。初めて観た洋画だったんです。度肝抜かれました。こんな美しい世界が世の中にあるのかと、ミア・ファローの美しさに惚れ惚れしました。で、ロンドンの街で探偵がミア・ファロー役の女性を尾行する探偵ストーリーなんですが、その探偵役の役者が着ていた真っ白なトレンチコートに当時憧れまして、親に買ってくれってねだったものです。「バカ言ってんじゃない小学生が」って叱られました。(笑)
あの映画は強烈でしたね。ほかにも映画は大好きでよく見てました。

—また、音楽の話に戻りますけれども、やはり音楽を聴き始めたのは先ほどお話されていた友達のギターであったり、喫茶店「ぶろっく」からですか?
ええ、もっと遡るとやはり最初はテレビでしたかね。当時「シャボン玉ホリデー」もよく観てましたし。後は姉達が買ってくるレコードですね。当時、GSブームでテンプターズ、タイガースなどのレコードを姉達が買ってくるのです。ポータブルプレイヤーで聴いて自然と違和感なく聴いていました。
今でも思い出しますが「シャボン玉ホリデー」のエンディングで歌われていた「スターダスト」ハナ肇さんが最後にドンと肘打ちされるシーンで流れていた曲も、後年「ぶろっく」に通いだして、ジャズのスタンダードナンバーだったことを知ったわけですよ。あっ、ザ・ピーナッツが歌っていたのはこれだったんだと。知らず知らずにそういう名曲に接していたんだなあと思いました。


—音楽を知る上でレコード屋さんにもよく行かれたのではないですか?
ええ、通いましたね。玉光堂さんや、ミュージックショップ国原さんなど通いつめてました。ただ、お小遣いが少ないから、当時はどれでも試聴出来たので、何十枚も聴いて、じっくり吟味して、あっこれだっていうものを買ってました。当時買ったもの全部まだ残っているんですけど、300枚くらいあります。

▼小路さんのLPコレクションの一部


—最初に買ったレコード覚えてますか?
えーと、うろ覚えなんですが、確か「かぐや姫フォーエバー」ボックス盤だった記憶があります。母の知り合いが働いていたレコード店に、お金が貯まるまで取り置きして欲しい、と頼んでずっとしばらく買えなかったから、あれが初めて自分の小遣いで買ったLPだと思います。

—今でもCDは買われますか?

ええ、勿論ダウンロードで済ますものもありますけれども、CDとして残しておきたいものは買います。

—CDも相当お持ちなのでしょうね。

ええ、なにせバブル時代に広告会社にいましたから、資料として会社の経費でバンバン買ってましたね。その大半がうちにあります。(笑)

—今でも音楽は頻繁に聴かれますか?

僕が書く小説にはテーマソングが重要でして、必ずどの作品も書いてる間は音楽を流しています。なによりもまずテーマソングが物語の中心にありますから。曲さえ決まれば書き始められます。

今、1970年代の子供達が活躍する、怪獣が出てくる小説を筑摩書房で連載で書いているんですが、そのテーマソングはこれです。

(PCを作動させ、i-tunesから曲が流れる)

『ウルトラセブン』のテーマ

スタンダップダブル!という高校野球小説を書きまして、今その続編を書いているのですが、そのテーマソングはこれです。


『玉置浩二さんの「田園」』
玉置さんが出演されていたドラマ(コーチ 1996年7月~フジテレビ)野球のシーンがドラマの中に出てくるのですよ。それでこれを選びました。
それと、宮下奈都さんと共作で書いた「つむじダブル」はこれです。

『藤井フミヤ「トゥルー・ラブ」』
なんでかと言うと登場人物のお母さんが元アイドルでおそらく当時好きだった曲がこれなのではないかと。

—とても面白いです。本当に音楽と物語がマッチングしているのですね。東京バンドワゴンのドラマ化の話、いろいろなところから来ていると思うのですが。
ええ、たくさん来てます。僕が断っているわけではなく、集英社に一任してますが、なかなか難しいんでしょうね。キャスティングとか・・・。いろいろな所から企画書届いています。集英社も本腰入れて考えているのでしょう。

—初めて読んだとき、もう我南人は忌野清志郎さんしか浮かんでこなかったのですが。あと、サチさんは八千草薫さん。
実は我南人は僕の中でのロックスターの集合体なんです。金髪姿はロッドスチュアートだし、口調は実は陽水さんの「お元気ですかー」なんですけどね。あののんびりした感じがイメージにありました。
「ラブだねぇ」はやっぱり「愛し合っているかーい」の清志郎さんが頭にあったから自然と出てきたんでしょうね。
実際にはやっぱりミュージシャンがいいと思うんですよ。で、60代で背が高くて演技が出来る、というとまあ・・・例えば鮎川誠さんとか・・・。 ただ、どう考えても勘一や我南人を主人公にして考えるプロデューサーはいないと思うんですよね。老人だし。やっぱり紺や青を中心にしないとドラマにはなりにくいかなと思ってます。後はサチの立ち位置をどうするのか、ナレーションだけだと面白くないし、かといって幽霊でずっと出ているというのも不自然だし。
まあ、そんなこんなでなかなか決まらないんじゃないでしょうか。

—なるほど。私としてはTBSで寺内貫太郎一家テイストで創って頂きたいですね。叶わないけれども、向田邦子さん脚本で、久世光彦さん演出で。
はいはい。(苦笑)

—最近ライブは行かれましたか?
ライブは行かなくなりましたね、音楽を諦めてから。それとどうしても照明や演出などが気になってしまったり、広告会社時代イベントも数多く作ってきましたから、そういう視点になってしまうので、なかなか純粋に楽しめないんですよ。

—なるほど、とても理解できます。最後に最近おススメの音楽、なにかありますか?
Vintage Troubleですかね。みんな若いんだけどやたらと渋くてかっこいいですよ。これです。(i-Tunesから選んで流す)

—えっ?これメンバー若いんですか?正調ブルースロックですよね。日本で言うとTHE BAWDIESみたいですね。渋いですねー。ALLMAN BROTHERS BAND的でもあります。
そうですね。そんな感じ。

—今日はお忙しいところ有難うございました。これからも作品楽しみにしています。
こちらこそありがとうございました。

取材・構成:鈴木 健士(NPO法人ミュージックソムリエ協会 理事長)

小路幸也(しょうじ ゆきや)

略歴
1961年 北海道旭川市生まれ。
1985年 札幌市で、地元百貨店をメインクライアントにした広告制作会社に就職。エディター・ライター・プランナーとして勤務。
1991年 30歳を期に作家になろうと志し新人賞への投稿を開始。
1999年 38歳で退社。フリーとなり、シナリオライターでゲーム制作に参加。村上龍原作のPS2ゲーム『五分後の世界』でアンカーシナリオライターを務める。また、専門学校でゲームシナリオ講師として教壇にも立つ。
2002年 11月、講談社メフィスト賞を受賞の連絡を受ける。
2003年 4月『空を見上げる古い歌を口ずさむ』(講談社)で作家デビュー。
現在、北海道江別市に在住。

NPO法人ミュージックソムリエ協会

NPO法人ミュージックソムリエ協会は音楽に関与する人材を発掘し、育成し、音楽とその周辺のソフト産業の活性化・多様化をもたらします。

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