全米TOP40が再スタート DJ 矢口清治さん
——この番組を、再びリスナーの皆さんの元に届られる事を本当に素晴らしいと思います。有名な番組で、ポップス音楽が一つの文化として全国の方々に届けられたという功績があったという事、今も番組を通して様々な方々にこのプログラムを届けられているという事など、是非お話を伺いたくおじゃましました。矢口さんがアシスタントに応募されご自身の視点で感じられた全米TOP40について、そして、その後の変遷などお伺いしたいと思います。矢口さんが応募されたのは大学時代だったとお聞きしましたが?
矢口清治史を振り返りますと全米TOP40という番組をラジオ関東(現ラジオ日本)で放送している事を知ったのが中学生ぐらいだったんですね。1974年の年間チャートの発表があった年末、初めてきちんと聴きまして、75年から78年まで毎週毎週カセットテープに全て録音し翌週の放送が始まるまで毎日聞くという事をやっておりまして、1977年の終わりまで湯川れい子さんのアシスタントをされていた山本さゆりさんがこのほど卒業されるという事で、一般リスナーから後任を公募するという事を聞き77年の終わりに応募したんですね。そして78年5月からラジオ関東(当時)へ大学卒業まで毎週土曜日アルバイトとして通いました。大学卒業とともにラジオの仕事をもうちょっとやろうかなぁと思ってそのまま今年で34年経過してしまいました。
——まさに青春まっただ中の濃い時間を過ごされたわけですね。
そうですね、15歳から18歳の期間に、まず第一に全米TOP40という番組に夢中になれたという事は、振り返るに自分の人生を決めた部分が大きいですね。とにかく面白くて仕方がなかったですね。毎週毎週チャートを聴き、その期間に耳にした最新のアメリカの洋楽ヒットが素晴らしいものとして自分の中で全く色あせず価値を失わない、これは一人の人間としてはかなり重要なのではないかと。それがあったから今に至り、だからこの仕事をずっとやってきたのかなという気がします。その3年が今思えば全てではないかと。
——中学生当時1974年に全米TOP40に出逢ったきっかけというのは?
中学校に入ると様々な種類の人達と接点が出来、その時点で社会との出逢いが生まれ、友達との間で様々な会話が生じて自分の価値観みたいなものを提示しないとコミュニケーションが出来なくなる。友達が「ラジオを聴いてるよ。」と。「え?ラジオなんてあるんだ。」その頃ちょうど自分の部屋の中で過ごす時間が増えてきますよね。In my roomの世界が始まるわけです。*ウォーカーブラザーズで言うと。(笑)(The Walker Brothers「In My Room」(邦題:孤独の太陽))
当時LF(ニッポン放送)もQR(文化放送)も聴取率調査週間でビートルズ特集をよくやってたんですよ。でもビートルズを知らなかった。既に解散してましたからね。ビートルズはすごいって話をクラスの中で取り上げる連中が出てきて。で「俺、ビートルズ好きなんだよ。」という話をしたら、卓球部の片山という奴がですね、「今のチャートも聴いた方が面白いよ、ラジオ関東の全米TOP40っていう番組、今のアメリカのチャートやってるから聴くといいよ」って言うんで聴き始めたら、いやーびっくり。結局ビートルズを聴き始めた時点から、60年代のポップミュージックの事しか頭には無かったから。
当時のAMラジオを聞いていた時にその時の流行の音楽、とても表面的な、今売れているもの、日本のレコード会社が売りたいと思っているもの位しか聴けなかったのが、リアルに海外の本来のチャートミュージックを毎週丸々聴ける。
作為的ではない現象としてのポップヒットというものに対して毎週3時間触れるチャンスが出来た。且つ、湯川れい子さんという卓抜したキュレーターが、その音楽の魅力を数倍にも理解出来るような形で伝えてくれた。ほんとに寝食忘れて“いいPOPミュージック”に触れる事ができました。
全米TOP40を聴く事によってそれ以前のヒット曲に結びつくような優れたPOPミュージックの存在みたいなものにも理解や認識を得るチャンスができました。これも大きかったですね。今のヒット曲だけを追っかけるのではなく、今のヒット曲に結びついている過去の音楽の素晴らしさを受け入れられる姿勢というか、もっと知りたいという好奇心みたいなものをすごく刺激されて。僕ぐらいの世代までは兄貴が聴いていた洋楽を聴くと、それまでの歌謡曲とは違う世界を知って、レコード屋さんに行くと、ラジオで聴いたり雑誌で目にしたりする過去の名作が沢山あって、これは全部聴いてみたいなと、世代的に通過してこれたんですね。それはホントに幸せだったなと思って。
かつてのレコード屋さんは少なくなってしまいましたけれども、あの時の憧れの気持ちや好奇心、そういうものが自分の人生にもたらしてくれる実りみたいなものに対してはすごく肯定的に記憶が止まってますからね。よかったなぁと。
——色んな局があったり音楽番組がある中で“全米TOP40”というのは矢口さんにとって存在感や当時の影響力をどのようにお考えですか?
まずシンプルにロスアンジェルスから直送されるラジオ局の原盤を用いた最新のヒットチャート番組というのは日本では全米TOP40しかなかった。そのスピード感とかダイレクト感みたいなものが他ではない重要性を持っていたという事、湯川れい子さんによる洋楽の解釈というのが加わる事により、その曲の真の魅力や歌謡曲にはないものがあったと思うんですよね?歌謡曲っていうのはマーケティングされた音楽なので、買う人が理解出来る範囲の音楽的資質のものしか出て来なかったと僕は思うので、それを凌駕し、今の時代に生まれたけれども、何年たっても価値があり、振り返られるような音楽が、洋楽と歌謡曲との圧倒的な違いでして、その部分をきちんと認識した上で紹介したのが湯川れい子さんだったんですよね。だから全米TOP40を聴く事によって、音楽、アーティストが伝えている事っていうのがまた違ったレベルで自分の中に入ってきました。これが、いまでも全米TOP40っていい番組だったと思っている人達にとっては突き詰めていくと魅力だったのだと思うんです。音楽を違うレベルで理解する事が可能な番組だったと。そこに尽きるんじゃないですかね。
そのヒット曲というのは湯川さんがいつもおっしゃるように世の中を映し出すものだから。世の中に対する認識っていうのを持てる事が、こういう世の中では、自分というものを見つめ直す重要なポイントになると僕は思うんですよ。
——番組を通じてヒットに繋がったり話題になったものはありますか?
ごく表面的な部分で言うと、山本さゆりさんが加わってから大きく間口を広げたBay City Rollersによる洋楽アイドルムーヴメントとか、その後、今泉圭姫子さんによるDuran Duranなど、全米TOP40が旗を振ってた頃が絶対あると思うんですよね。いずれにせよ、アメリカやイギリスで人気があって世界的なグレードを持つ洋楽スターとして出てきたとは思うのですが、そういった動向を、当時の状況の中でどんどんリスナーに向かって投げかけていた番組という意味では影響力あったと思うんですよね。同様にそれぞれのフィルターを通してこういう価値があるという事をきちんと伝えた番組なので、それを通じて得た人は、やっぱりその価値って忘れないですよね。流行っているから好きになった人は人気がなくなったら関心を失うと思うのですが、その時に受け取ったものの大きさによってそのものの価値というのは残り続けますから。だから本当に今思うのは、Bay City Rollersは皆馬鹿にしてたけど、自分は本当にいい曲だと思って聴いてたし、今もいい曲だと思うし、その気持ちは変わらない。そういう気持ちになれたのはちゃんと伝えてくれたし、それを自分の中で咀嚼し得たからだと。ここが大切なんですが、同じものを見ても同じ感動を得るとは限らないじゃないですか?その違いが何故生まれるかというと受け取る側が違うからですよ。その受け取る側の素養というのがすごく大きくて、それをカルティベイト、耕してくれた番組ではないかと。
——そこは、とても大きいですね。
あと、Huey Lewis&The Newsも何故このタイミングで応援するんだっていうような..。まだアメリカでスポーツがガーンと来たくらいな所で、その時の番宣良く覚えていますよ「頑張れヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」っていう(笑)…番宣がラジオ欄に出ていて、これスゴいなと。その後で「FORE!」が発売になって世界的に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」映画主題歌「The Power Of Love」とか日本でも有名になって。BON JOVIもそうですよね?確かに日本で最初にアイドル的なハードロック…ルックスからの人気で火がついていましたけれど、アメリカですごくなってきた事に関して全世界的に…それを外と内側をつないで開いていたのが全米TOP40だったと思いますね。あと地味なところで言うとPaul Davisの「I Go Crazy」という曲があったんですが、日本で発売権利がなくて、実に40週間に渡って1年近くTOP40の中にいてTOP10にも入った曲なんですけど、地味な曲なんですよね。でも40週いるっていう事はちゃんと毎週聴いていれば40回聴くんですよね?そうするとその曲の良さみたいなものがやっぱりわかるんですよ。これは名曲だ、と。それが偶然にも田中康夫さんの小説「なんとなく、クリスタル」の中で例によって青山のパイドパイパーハウスで買ったレコードとして紹介されて、小説が映画化された時にサウンドトラックに入って、初めて日本でちゃんと紹介されるようになった時に、AORの流れの中でもホントにいい曲だと。でも全米TOP40を聴いていた人は最初からその良さをわかってたんですよ。
そういう事を、聴いてる側としてはすごく感じるんじゃないですかね?やっぱりきちんと、いい曲を紹介しているラジオ番組は。
——さっきおっしゃっていた受け手側のカルティベイト、醸成させるというところの役割というところを非常に強く感じました。
そうですね。ちょっと前に番組の質問に答える形で調べた事があるんですが、最初に湯川さんが担当された72年10月14日の放送から全米TOP40の名前では86年9月27日までの14年間730回、それ以降、番組名が変わっても毎週チャートを紹介してきた89年4月8日の放送までの16年半と、僕も番組に携わる人間として感じましたが、番組が続いていくんだという安心感ってリスナーにとってもとても大きいんですよね。というのは、あまりにも番組が簡単になくなる世の中になっちゃったので。こんなに楽しみにしているのになくなっちゃうのは寂しいな辛いな哀しいなっていう事は送り手が思っている以上にあるんですよね。今、他局でやっている番組ですが、ハガキを書いて下さる方の多くが“ずっとこの番組が続く事を願っています”ってお約束のように書いてくれるんですよ。やっぱり短期的に番組が終わり続けてきたんだなーって、感じるので。で、この番組の影響力とか未だに思い出してもらえる要素があるとしたら長く続けられた事であり、それは局の皆さんの理解とか、続く意味や意義がある事に対する認識のおかげなんじゃないかと。その端にいられた幸運というのは大きかったと思います。
——今の番組オンエアに至るまで、時代の流れや、期待感、リスナーの反応など、どういう反応がありましたか?
これは皆、共通するのですが、当時聴いていた方々がやっぱり忘れていないんですよね。80年代に10代だったり20代だったり。幸運な事に洋楽が一般的なレベルでもクローズアップされていた時代とクロスしているので、もうあの頃のようにポップスターに関心を抱いてはいないけれども、この番組をもう一度耳にする事によって、あの頃自分がどのように音楽や番組と接点があったのか、毎日を生きていたのかという事をとても強く思い出せるし、その頃が素晴らしかった事を認識できると。それはあの頃は良かった、今は良くないという事ではなく、あの頃の自分って幸せだったんだな、という事がわかると。そういう気持ちが、この番組が今またラジオから流れているのが嬉しいという気持ちが、お便りの中で共通してわかりますね。
今現在の洋楽やその他の音楽も、本当にいいものが需要とされているところに届いていないとその人達が何十年も経った時にどうなっちゃうんだろう?と思うんですよ。今の流行のものよりは80年代を振り返り、ある程度淘汰された上でそれでも素晴らしいと認識できるものは、始めて聴く人にとって魅力的に聴こえる可能性があると思うので。僕は若い人達にもどんどん、あっこういう曲がほんとにヒットしていたんだっていうようなものをわかって欲しいですね。僕だってリアルタイムで聴いていなくても60年代の洋楽を知るチャンスが沢山ありましたからね、ラジオで。
——今の番組リスナー層には当時も聴いていた方が中心的にいらっしゃると思うんですが、それ以外の層のリスナーからの反応はありますか?
親子で、というハガキが時々来ますね。この間もBryan Adamsが来日してましたが、当時リアル世代だったリスナーの方が、息子さんや娘さんをコンサートに連れていくと、やっぱり本物に出逢えるというか、きちんとクオリティの高いステージをしてくれている限りは親子で楽しめる影響力はとても大きいんじゃないかなぁと思います。本当に何年続けても質が落ちないような演奏力や表現力、その意識がないと出来ない事を例えばBryan Adamsのような人達が今も変わらないままパフォーマンスしてくれる、それと今、人気のある邦楽の人達のステージのグレードと比較してもいいんじゃないかなと正直には思いますね。
——過去を振り返ってエピソードになるような思い出はありますか?
ある日の夕方、リスナーズトップ10というリスナーからのリクエストを集計し、番組の中で発表するという電話リクエストの受付をしている時に、たまたまオノヨーコさんに湯川さんが電話でインタビューするという話になって、湯川さんがオノさんと国際電話で話をしている時に湯川さんが「そこにジョンはいるの?」って言ったら「いるわよ」ってジョンが出てきて、湯川さんとJohn Lennonが話をされて、それが日本人による最後のインタビューだったんですよ。そのインタビューの模様が放送されたのが12月6日の放送で、その直後に12月8日の事件が起きて….収録したのはそれよりもちょっと前でしたけれど、放送されたのがたぶん12月6日でした。
それから数々のゲストがスタジオを訪れてくれて。忘れられないのがThe Knackという「My Sharona」という曲で瞬間大ヒットしたバンドなのですが。彼らがプロモーションに始めて日本に来てショーケースライヴをやっていた時がアメリカでMy Sharonaが1位だった時で、その週の1位のバンドがその日の放送でゲストでいるっていうね、これはもう全米TOP40だなぁっていう感じがすごくあったのを覚えていますね。ある時期から、まず全米TOP40に出演して、洋楽ファンや洋楽の意味や価値がわかる人達にアピールしたいというレコード会社サイドの意識が高かったみたいで、今回調べてみたら凄い人達来てましたね。79年The Knack、Rita Coolldge、Herb Alpert、Air SupplyとかRupert Holmesなどが80年に出演してますし、81年Jim Photoglo、Dacy Jones、亡くなりましたけどJohn O’banion、82年Juice Newton、Huey Lewis、Loverboy、83年Men at Work、Bryan Adams、83年のBryan AdamsっていうのはRecklessの前ですから。84年Cliff Richard、Cyndi Lauper、Nena、85年a-ha、86年Chalie Sexton、87年Tiffany、88年Glenn Frey…..。
いい現場にいられたなぁってつくづく思いますねー。
——現在の日本国内での洋楽シーンは、当時比べて違いはありますか?
色々分析したり解析したり掘り下げてってじゃぁどうすればいいかっていう事を考えなくちゃいけないと思うんですけどね。なんかこう表現全般に対して熱く反応するっていう要素がすごく下がっているのかなぁって思って。それは世界環境とか経済情勢とか色々なものが関係しているので、どこをどういじればどういう風に変わる、昔の方が良かったからそっちの方に向かわせるにはどうしたらいい、って事はちょっと個々人のレベルとか一企業とかでは難しいと思うのですが、一番大切なのはやっぱり大人がもっとバカみたいに喜んだり悲しんだり悔しがったりする、でそれが人生の面白さなんだという事が自然に伝わるような事をした方がいいんじゃないでしょうかね?僕の世代でもやっぱりもっと遊学に対してアグレッシヴになんなきゃいけないと思いますよ。口角泡を飛ばしてこの音楽の良さがわからないお前は馬鹿だ!と言わないとね。
上の世代が音楽聴いても幸せじゃなさそうに見えたら絶対音楽なんかに対しての価値や意味は伝わらないですね。
今も過去もそうですけれどもヒット曲やポップスの表現の純度が高かったり熱かったりする事に、自分はもっともっと触れていたい、もっと感化されたい、自分の生き方の中で刺激を受けたいっていう気持ちは全然変わりませんからね。それが在る以上、もっと良い音楽をきちんと紹介しなければいけないと思いますし、それをわかってもらえれば、もっといい音楽に触れていたいと思ってくれるんじゃないかと思っています。
ものスゴく好きな曲ってありますよね?この曲が自分の人生を変えたとか、この曲があるから今自分は幸せなんだとか。
じゃあ、その曲と巡り会わなかった自分を想像してみましょう。巡り会わない自分はそもそもそれを知らないので悔しいとも悲しいとも思わないんですよ。でも巡り会った自分は巡り会わなかった自分の事を考えると、何て不幸な人間なんだお前は、と思うでしょ?だから、全てそれなんですよ。
自分が知ってる、巡り会ってこんな幸せな気持ちになった音楽を一人でも多くの人に伝えないと。巡り会えなかった俺って何て不幸なんだろうっていう風に、未来からみた過去の自分に対してイメージを働かせると、じゃあ巡り会えなかった人達を作っちゃいけないと。それがラジオの仕事でありディスクジョッキーの一番根幹な部分として、無くしてはいけない気持ちなのかなぁと強く感じます。
今、選択肢が多すぎますからね。多いのが良いみたいに思われるけれど、こんなに多いのに何故良いものに辿り着かない?それってどういう事なんだと思うわけです。だからこそ、潜在的に求めている人のもとに届けるという突出したエネルギーが必要ですよね。そのためには、音楽のキュレーター的存在が必要だと思います。
——ありがとうございました。
【矢口清治氏プロフィール】
『全米トップ40 THE 80’S DELUXE EDITION』 日本語解説担当
1959年群馬県生まれ、ディスク・ジョッキー。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオの仕事に就き、以降『ミュージック・トゥデイ』・『セイル・オン・グルーヴィ』・『ミュージック・ガンボ』・『カウントダウン・カンサイ』・『インタートップ30』などを担当。現在NHK-FM『ミュージック・プラザ 木曜日』のDJ、『ミュージック・マガジン』・『ミュージック・ライフ』などの専門誌や『時事年鑑』・『BRIO』・『芸術新潮』などに執筆。その他、エルトン・ジョン、セリーヌ・ディオン、フィル・コリンズ、ビリー・ジョエル、ホイットニー・ヒューストンなどのアルバム解説を手掛ける。
【イベント情報】
「Hits from coast to coast~過ぎし日の想い出」
《日時》2012年4月14日 土曜日 15:00~17:30 (14:00受付スタート)
《会場》「HIT STUDIO TOKYO」JR東京駅 八重洲口 徒歩5分
東京都中央区日本橋 3-2-17 日伸ビル B1F TEL:03-5205-3800
《司会》矢口清治 《スペシャルゲスト》湯川れい子
《会費》3,000円(1ドリンク付) *応募方法等下記、ホームページをご参照ください。http://y-staff.co.jp/?p=1335#more-1335
【ラジオ日本 1422kHz】
☆「全米TOP 40 THE 80’S〜DELUXE EDITION」(毎週日曜日22:00〜23:00)
毎週土曜日放送の3時間番組「全米トップ40 THE 80’S」とは別に、日本語解説を加えた1時間バージョン。日本語解説を担当するのは、「全米トップ40」出身のDJ矢口清治。矢口清治の低音ボイスの落ち着いた語り口と楽曲に関する幅広い知識で「全米トップ40」のファンのみならず、さらなる音楽ファンリスナーを取り込んでいく番組です。
☆「全米トップ40 THE 80’S」(野球中継のない土曜日午後17:55~21:00)
全米音楽チャートのカウントダウン番組「American Top 40」の1980年代版を、"VOICE OF AMERICA"とまで言われたDJケーシー・ケイスンによる英語版のまま、3時間番組として放送していきます。1980年1月第1週から1989年12月最終週まで、全米から世界各国に発信された番組をアットランダムに、ほぼ原盤のまま放送。
ラジオ日本の前身であるラジオ関東時代の1972年10月に放送をスタートし、以降14年にわたって放送した『全米トップ40(※1)』。当時の放送では、全米で放送の「American Top 40(※2)」の録音盤を空輸。ケーシー・ケイスンのわかりやすいDJに加え、湯川れい子の丁寧な解説と、坂井隆夫のエコーを効かせた軽快な喋りで人気を呼びました。洋楽の本質を日本の音楽ファンに知らしめた衝撃的番組とされています。
※1 『American Top 40』(原盤):1970年7月4日、初代DJケーシー・ケイスンによって放送開始。今年、放送開始40周年を迎えまた。現在のDJは3代目。音楽業界誌「ビルボード」のシングル・チャート"Hot100"の上位40位を紹介、解説。
※2 『全米トップ40』:1972年10月14日にラジオ関東で放送を開始し、1986年9月27日まで放送。当時、毎週土曜日 深夜11時00分~2時00分の3時間番組として放送。湯川れい子の解説、当局のアナウンサーであった坂井隆夫のエコーを効かせた喋りが話題に。また当時のアシスタントDJとして、矢口清治、山本さゆり(チャッピー)、今泉圭姫子(スヌーピー)がいる。
0コメント